昭和五十四年十月二十六日 朝の御理解


御理解第一節

「今、天地の開ける音を聞いて眼をさませ」


 合楽では、お道の信心を宗教以前の宗教だ、と言うております。 開闢以来の事だ、前代未聞と云うふうにも申します。
 それを皆さんが、成程そうだと分からしてもろうてね。
 その実証たる所を体験させてもろうて、確かに宗教以前の宗教だな。
 こういう宗教が又と有ったであろうか、いや無かった。それはこういう事からでも、それが云える、というふうに確信出来られる。 いわゆる金光教の信心の素晴らしさ。今、合楽で説かれておる合楽理念の素晴らしさ。
 という事を皆さんが頂かなければならん、自分のものにしなければならないね。
 そういう時、初めて天地の開ける音を聞いて眼が覚めた時だ、と思うですね。
 目がパチッと覚めなきゃだめです。
 はあ、そうかなあ程度の事ではいかんのです。本当ぢゃろか、と疑い半分ぢゃいかんですね。
 そこん所がすっきりとしたものを、私は頂いてね。
 いよいよもって合楽理念というものを、合楽を通して神様が世に問おうとしておられるね。
 その私共が使命感に立って、それを本当の事として人に伝えて行く、というおかげを頂かなければいかんです。 
 昨日は婦人部会でございました。また続いて研修会。まあ皆さんの本当に素晴らしいお話を、一人一人聞かせてもらいました。
 久留米の佐田さんが発表しておられました。皆さんも御承知のように、一家を挙げてあれだけ良い信心をなさっておられます。
 先日から御神飯の御用をしておられたら、狭い所を通ってヒジが一寸壁に当たったか何かで取り落とされて、御神飯器を一つ割られてしまわれた。
 その時にフト思われた事は、「ああ、良かった。今度の御本部参拝の時、御神飯器を二つ買って来とった、おかげで良かった」。と思うて、すぐまた新しい御神飯器に盛って、お供えをしておられたたら、また同じ所で取り落とされた。
 その時には、ああ、あの時に二つ買うとって良かった良かった、では無かったわけですね。
 神様の同じ所で同じ不調法を、しかも御神飯器を割るという事は、
これはただ事ではない、とすぐ心の中に感じられた。こういう
事が神様の御気感に適わなかった。
 いよいよ良い信心を、めざしてもおるし、そのめざしておる自分が、こういう考え方、頂き方は間違っておった。
 と気づかれて、翻然とそこにお詫びをされる事になったと、もうびっくりするような、おいさみを頂いた。と発表をしておられました。これなんか眼が覚めたわけですね。
 始めの間は、二つ買って来とったから良かったと、割れたけれども、すぐ代わりがあって良かったと。
 所が神様は、やはり本気で求めておる人には、やっぱり神様も本気で、当んなさる事が分かりますよね。
 同じ所で又割った時に、まあもう一丁あるけん良かった、とは思わなかったね。
 神様の厳しさに触れられて、翻然として改まる事が分かって、これからは、こういう事は致しません。と詫びられた途端に、もうそれこそびっくりするようなおいさみだったそうです。
 そうだったんだよ。そこが分かってほしかったんだよ。と神様が云わんばかりのものを感じるですね。眼が覚めたんです。 
 昨日最後に、文男先生が発表致しておりました。
 最近二、三日の御用で、自分の方の仕事は段々山積みしていくね。
 神の用を足せば、氏子の用は神が足してやる。とおっしゃるがね、
本当に、例えばね、神様の用を足しておかげを頂いとるから、神様が、呉服屋さんの反物も売って下さるし、集金にも行って下さる。という事ぢゃないという事です。
 成程、そういうおかげも確かに頂きます。
 神の用を足せば、氏子の用は神が足してやる。という事はですね。
 それがそういうなら、仕事は山積みしていくばかり、というのを見てから、翻然として分からして頂いておる事はです、それが、そのまま徳になる、と頂いたという事。
 徳というものは目に見えるものではない。しかも、その思い込みの強い事を、まあ色んな例から話しておりました。
 その例話が素晴らしかった。けどもその例話ぢゃないですね。
 問題は、いうならば本当の思いが本当の観念に変わって行っておる。
 神様の御用をする。店の方はいよいよ困った事になったけども、その困ったという、それだけ沢山な身に徳がつくんだと思うのです。
 この思い込みが出来たら、もう必ず、やっぱお徳受けるでしょうね。
 この辺のすっきりとした表現に、私もそこまでで良かばい、ち、思わず申しました事でした。
 信心はそれです。
 御用もせんなんばってん忙しかね。そりゃ御用すりゃ時間もかかるくさい、お供えすりゃそれだけ金は減るくさい、そこかしこなら、
仕事がそれだけ出来なかったという。それだけお金がへったという。
 しかし、それが、そのまま徳心になると確信する事なんです。
 信心とは、その確信が出来た時に、いうなら天地の開ける音を聞いて目を覚ませたんですね、
 だから神の用を足せば、氏子の用は神が足してやる。とまあ兎に角、神様が自分の用を足して下さる事を思うて御用をする。だから、
神様はやっぱりね、そういう働きを見せて下さる。
 帰ったら、もう集金に行かんでん持って来て頂いとった。もう本当に思いがけない、こういう商いがあったと、そういう所だけには有難い、有難い、と思うとるのは、おかげもそれでしまえとるぢゃないですか。いうならば、差し引き計算はすんどるわけね。
 私共が、神様の御用をさしてもろうた、だから氏子の用は神様がちゃんとして下さった。それでもうプラス、マイナスしまえとる。 けれどもそこには仕事は山積みしとる、三日も続けたからこうなった。いわば困る事も出来てきたけども、その事が大きければ大きいだけそのまま徳になる。という事を確信する所に文男さんの信心があるな、と昨日は思うて感心しました。
 問題はそこです。
 そこの心が開けた時に天地の開ける音を聞いて眼をさます。という事になるのぢゃないでしょうかね。
 教祖の神様が、信心を段々手篤うなさればなさるほど、難儀な事が、それこそ七墓築くような事が起こってきたね。信心すればするほど、困った事が起こって来たね。
 そこで、いうならば当時は金神信仰から入られたんですから、金神様と、ま、申しておりました。
 知って迎えば命を取り。知らずに向こうても眼を取る。と云うほどのあらたかな神様を慎んで信仰させて頂いて、こういう事が起こって来るのであるから、こちらの実意が足りない、こちらの真が足りないからの事であって、こちらが実意をもってするならば、眼を与えて下さる事も、命を与えて下さる事も、自由自在の神様だと信じられて、純粋にそれに向かって進まれた所に教祖の信心があったと思うんです。
 これほど信心するのにね、それは、まあだ私が足りないからだと実意の限りを尽くして行かれたと。どうぞ神様、お向き変えて下され。お向きを変えて下さい。と悪神、邪神のように世間では云う、神様に向かって、実意の限りを尽くしておいでられた時に、お向きを変えられたね。
 そこには、いうなら慈愛溢れるばかりの天地金乃神様の出現、出現というよりもね、廻れ右をなさっただけの事です、神様がね。
 神様の本心は、これなんです。
 氏子信心しておかげ受けてくれよ。というのは、それなんだ。
 信心すりゃもうすぐ金が儲かるで。病気がすぐ治るで。というような生易しい事ではないね。
 本当な事が、本当に分からしてもらうという天地の開ける音を聞いて、眼を覚ます程のおかげを頂いてくれよ。というのが神様だから、この辺に求められるのが素直とか、純粋とか、という事になって来るのです。
 昨日、若先生が帰って来ました。
 それでお父さんの喜の字の祝いですかね、七十七のお祝いがあるので皆が集まってお祝いをするのは二葉鮨が始まって以来、初めてだったそうですけれども、中々あのお父さん、ああ云う純粋であって頑固であって、色々感じられるようなお父さんなんです。
 それでもう、お爺ちゃんは怖いよ。お爺ちゃんは怖いよ。と云うふうにその他の子供達、孫達は、親がもうそげなふうに教えとるから、お爺ちゃんの所に寄りつこうとしない。
 お爺ちゃんが、どこどこに連れて行こうと云うたっちゃ、いいえと云うて遠慮する。
 ところが、ここから行っとる孫達は、その怖さを知らんもんですからね。お爺ちゃんの怖さを知らんもんだから、機嫌が悪うなると、
「早よ、こればお爺ちゃんにあげておいで」ち、云うてからアイスクリ-ムか何か持たしてやるとね、もうそれを喜んで、今迄怒っておったお爺ちゃんが一遍にくりっと変わってしまいなさる。と云うようなふうで、まあ、雰囲気が変わってしまう、と云う話を昨日しとりました。
 純粋と云うものは、そうなんです。
 お爺ちゃんは怖い人だ、金神様は怖い人ぢゃ、と云うのぢゃなくてですね。それこそ、命でも眼でもね、問題さえこちらがしなければ、おかげの頂けれる神様だ、と信じておられる。
 東京の孫達は、お爺ちゃんは怖い人だと思うとるから寄りつかん。
 ところが、ここから行っとる孫達は反対なんですね。浅草に行くち、云うたらすぐ連れて行きなさるそうですね。して機嫌が悪うなると、お母さんがクリ-ムば持って、早よお爺ちゃんの所に行きなさい、ち、云うと孫にクリ-ムば貰ろてからは、キョロッと変わって、今迄怒っとられたお父さんが機嫌が良くなられる、神様の様な人です。
 だから、神様のような人を神様のような人と仰ぎたてられる、と云う事には、純粋さが求められる、と云う事は皆さん分かるでしょう。
 信心には、今迄の観念と云うものを捨てる事の出来られる、いうならば、おかげを頂かしてもろうて、いよいよ本当な事から本当な事へと、心の眼を開かしてもらう。
 それを、私、天地の開ける音を聞いて眼を覚ます。と云う事だと思うんです。
 今日私、佐田さんの例と文男先生の例を申しましたがですね。
 私共が本気でその事に向かえば、神様が叩いてでも分からせようとなさる働きを、佐田さんのお話しから聞いて頂きたいね。
 お徳を受けると云う事は、「一生懸命に打ち込んだら、神の用を足したら、自分の方の用は神様がしておって下さった。はあ、あらたかな神様だ」。と云う間は、本なもんぢゃないね。
 三日間がまるっきり空になったような状態、けどもそれだけお徳が受けられる。と思い込んでおると云う所に、心の開けておる人の頂き方と云うものが、そこに伺われるでしょう。
 こうすりゃ、これだけマイナスになる、だからマイナスになるような御用はでけん。と云うようなものぢゃなくて、マイナスになりゃマイナスになっただけ力になるんだ。徳になるんだ。とそれを思い込んでおる話しぶりから、それを感じるわけですけれども、素晴らしいなあ、と私は思いましたね。
 そこん所の、その思い込みが出来た時にです。
 私共は本当の事が分かったと、天地の開ける音を聞いて眼を覚ました時だ。と云うふうに思うです。「どうぞ」